三十三間堂の千手観音坐像

  湛慶晩年の大作

 

 

住所

京都市東山区三十三間堂廻町657

 

 

訪問日 

2013年7月14日、 2018年8月13日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

三十三間堂・仏像

 

 

 

拝観までの道

三十三間堂へは、京阪線の七条駅から東へ徒歩約5分。

京都駅からは、烏丸口(北口)より京都市営バス100号、または206号(反時計回り)の系統のバスで「博物館三十三間堂前」で下車、すぐ。

 

私のおすすめは、京都駅前の塩小路通を東へと歩いていくルート。20分くらいで三十三間堂の南側に出る。その先に立派な八脚門(南大門)がある。

16世紀、豊臣秀吉が方広寺をつくると、三十三間堂もその中に取り込まれた。三十三間堂の南側の築地塀(太閤塀と通称される)やこの南大門は、巨大な寺院であった方広寺の南限を示す遺構なのである。

南大門はこの形式の門としては2番めの大きさのものという(ちなみに日本最大は東寺の南大門であるが、これも元、方広寺の西門だったもの)。門の中央部分は普通に車が通れる道路となっている。

 

南大門をくぐって、三十三間堂の東側を拝観入口がある北側へと向かう。道の東には、三十三間堂の創建に深く関わった後白河天皇の陵墓がある。

 

 

拝観料

600円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

今は妙法院に属する三十三間堂だが、もともとは1164年、後白河院の御所である法住寺殿の仏堂として生まれたものである。平清盛が、千手観音への信仰あつい後白河上皇のために、その御所の西側に東面して長大なお堂をつくり、丈六の千手観音坐像を本尊として、さらに千躰もの立像をその脇に安置した。蓮華王院とも呼ばれるのは、並外れた救済力をもつと信じられた千手観音が蓮華王とも呼ばれたことによる。 

三十三間堂という名称は、内陣部分の長辺の柱間が33あることに由来し、その33という数は観音が33通りの姿に変化して人々を救うと信じられていたことによる。これに四方に1間ずつの庇部分がついて、実際には正面(南北)が35間、東西が5間という実に長大なお堂となっている。 

 

実は、33間のお堂に観音を千躰安置するお堂には先例がある。それは清盛の父、平忠盛が鳥羽上皇のためにつくった得長寿院の観音堂で、聖観音千躰が安置されたというが、残念ながら現存しない。このように、仏への帰依の深さを数量で表わそうとする風潮がこの時期には盛んであった。

 

後白河院の御所である法住寺殿は、木曽義仲によって焼かれる(法住寺合戦)。この時は、三十三間堂は類焼を免れた。

鎌倉時代も半ばになった1247年から1249年にかけて大規模な修理が実施されたが、あろうことか、その修理が終わったすぐ3ヶ月後の京都大火のために焼け落ちてしまった。 

当時院政を行っていた後嵯峨上皇は蓮華王院に並々ならぬ信仰と関心を持っていたようで、居ても立ってもいられなくなったのであろう、様子を見に出たが、煙と逃げ惑う群衆のために近寄れなかったという。 

この鎌倉中期になると、もはや院政期のように有力者が進んで院や朝廷のために造寺造仏を行うような状況ではなくなっていたが、それでも上皇は蓮華王院復興に強い意欲を燃やし、1266年までかかってついに再建をなしとげる。これが今日見ることができる三十三間堂であり、中尊の丈六の千手観音坐像もこの時に再興された像である。

 

 

拝観の環境

中尊はお堂中央の3間分に壇をしつらえ、蓮華座上に堂々と座する。

拝観位置からはやや距離があるが、像が大きいだけによく拝観できる。光背の細部なども肉眼でなんとかわかる。

 

 

仏像の印象

像高は約330センチ。髪際からはかると約250センチの丈六坐像で、光背・台座をあわせると7メートルにもなる。ヒノキの寄木造で、玉眼。台座、光背、天蓋まで一具であるのも貴重である。 

玉眼は内側から水晶を当て、本当の目のようにあらわす工夫である。水晶は石英の一種なので、たいへんに稀少というほどではないかもしれないが、丈六仏で切れ長の目に用いられるほどの大きさの汚れのない材を得るのは相当に大変なことであったであろう。

 

この像の最大の魅力は顔つきであると思う。威厳があり、品格があり、端正で、落ち着いた作ゆきである。目は半眼に開き、眉は満月のごとく豊かで、鼻、口のまとまり、額とあごのバランスなどすばらしい。目はややつりあがり気味で切れ長、上まぶた・下まぶたの曲線が絶妙である。ほおの張りがもよい。 

上半身、下半身のバランス、脇手のひろがり、膝の張り、衣のひだの様子、すべてに何らの瑕疵も感じられない。 

まさに「蓮華王」という名にふさわしい像と思う。 

 

 

作者について

『一代要記』(鎌倉末期成立の年代記、作者は不詳)によると、1249年の火災の際に中尊の首と左手、千躰千手観音像のうちの156躰および二十八部衆像が救出されたという。しかし、救い出されたという中尊の部分は現存しない。実際には著しい損傷を受けていたためであろうか。 

現在の中尊、千手観音坐像は、運慶の長子である湛慶によって再興された像である。 

 

この像には、像内腹部の仕切り板と台座心棒に銘文がある。像内のものが造像時の銘文だが、かすれて読める部分は少なくなっている。台座心棒の方は江戸初期の修理時の銘であるが、かろうじて読める像内銘と内容が重なり合っているので、ほぼ像内銘の書き写しであると判断できそうである。 

これらにより、本像の作者は大仏師湛慶、小仏師は康円と康清によって、1251年から54年にかけてつくられたことがわかる。当時湛慶は最晩年の82歳であり、湛慶を助けた康円と康清はその次の世代の慶派の有力仏師であった。 

 

また、銘文には、「湛慶が康助4代の御寺仏師である」との記述がある。「御寺」の解釈が難しいが、素直に考えるとこの蓮華王院のことをさし、創建当初の中尊を奈良仏師の康助が制作、そして今再興にあたりその直系の子孫として湛慶が大仏師を継ぎ、この大仕事に臨んだという意味であろう。 

 

 

光背の三十三応現神について

光背には観音が33の姿に変化し人々を救済するという三十三応現神の像がとりつけられている。

像高は20センチ~45センチの大きさである。光が届きにくく、細部までよく見るのはむずかしいが、これらの像がつけられていることで本像の光背が立体感に富むものとなっている。さらに脇手や天蓋の荘厳も加わって、中尊はおごそかであるだけでなくたいそう華やかな印象がある。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』8、中央公論美術出版、2010年

『週刊朝日百科 国宝の美』29、朝日新聞出版、2010年3月

『国宝 三十三間堂』(改訂 第6版)、本坊 妙法院、2009年  

『妙法院・三十三間堂』(『新版 古寺巡礼 京都』18)、淡交社、2008年

「蓮華王院長寛造像の研究」1(『実践女子大学美学美術史学』21)、武笠朗、2007年3月

『妙法院と三十三間堂』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、1999年

『週刊朝日百科 日本の国宝』069、朝日新聞社、1996年6月

『妙法院・三十三間堂』(『古寺巡礼 京都』14)、淡交社、1977年

『三十三間堂』、三十三間堂奉賛会、1961年

 

 

仏像探訪記/京都市