三十三間堂の二十八部衆像

  湛慶一門の作か

 

 

住所

京都市東山区三十三間堂廻町657

 

 

訪問日 

2013年7月14日、 2018年8月13日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

三十三間堂・仏像

 

 

 

拝観までの道、お寺や仏像のいわれ

三十三間堂の千手観音坐像の項をご覧ください。

 

 

拝観料

600円

 

 

拝観の環境

二十八部衆と風神・雷神像は、堂内にずらりと並んだ千躰千手観音像の前に一列で安置されている(ただし4躰のみ中尊の周囲に配置)。

拝観位置から像までの距離が近いので、よく拝観することができる。

かつては堂後陣に並べられていたのだが、1992年より、拝観の便宜を図り前面に置かれるようになったのだという(ただし、本来は中尊の左右前方に固まって置かれていたと思われる)。

なお、2018年7月に一部の像の名前や位置の変更があった。

 

 

二十八部衆像について

二十八部衆は千手観音の眷属で、護法神の集合体である。絵画作品で千手観音像とともに描かれているものは見られるが、彫刻でかつ中世までさかのぼる作というと、遺例は少ない。三十三間堂の像はその最古のものである。以後の像で本像を模していると思われる例もあるが、その多くはサイズが小さい。この三十三間堂の像はほぼ等身大であり、迫力がある。

 

その姿はさまざまである。男性、女性。若々しい像、老相の像。衣を着けるもの、上半身裸形のもの、鎧をつけるもの。怒りを表すもの、静かな雰囲気のもの。多面多臂、多目、半人半鳥のように異形のもの。

足を細めにして、すらりと立つ、均整のとれた像が多いが、姿勢はさまざまで、武器、楽器、龍など持物にも工夫をこらし、一つとしてを同じ雰囲気を持つものはない。すばらしい群像である。

 

中には自然な伸びやかさにやや欠けるように思われる像もあるが、これは実際に造像を担当した仏師の力量なのか、または本来中尊近くの狭い空間にかたまって安置されることを想定してそのようになったのか、おそらくその両方であろう。

 

像の名称は、聞き慣れないものが多い。

たとえば「密迹(みっしゃ)金剛力士」「那羅延堅固(ならえんけんご)王」とあるが、これは上半身裸で、通常の仁王像と同じ姿である。中尊の周囲にはかつて四天王の4像が置かれていたが、現在では老人の男の姿をした婆藪(ばす)仙人、若い女性の姿の大弁功徳(だいべんくどく)天、梵天(大梵天王)、帝釈天が置かれている。

四天王、梵天帝釈天、仁王像は古代以来のお馴染みの護法諸神。それに千手観音の二脇侍のように扱われることがある婆藪仙人と大弁功徳天を合わせると十尊となる。これらは二十八衆に必ず入る。

その他は、セットによって入ったり入らなかったりの異同がある。阿修羅王、緊那羅(きんなら)王のように興福寺の八部衆像と共通するものがある一方で、ほとんど聞くことがない難しい名前の尊像も多い。

 

 

仏像の印象

二十八部衆像中には、作風の異なる像もあり、これほどの群像の制作にはさまざまな仏師がかかわっていた可能性がある。後述のように湛慶を中心とする慶派仏師が中心となったように考えることができるが、それ以外の仏師も加わっていたかもしれない。

 

最も安定した美しい姿で目を引くのが、帝釈天像である。おそらく興福寺国宝館安置の帝釈天像(鎌倉時代初期)をモデルとしたものであろうが、品格においてこれを凌駕する。

女神である大弁功徳天像は、雰囲気が帝釈天に似て、美しい立ち姿が魅力的である。衣の裾がぼってりとしているさまは、浄瑠璃寺の吉祥天像を思わせる。

 

これらの像と比較するならば、中尊に近い位置に立つ四天王像などは、顔つきには迫力があるが、やや体勢に不自然さが見え、作者の力量は若干下がるように思える。

このほかにも、怒りの表情を全面的に出した像に限ってなぜか精彩を欠いているように感じる。龍を呼び出し、立体的な動きが面白い難陀(なんだ)竜王像なども、その龍を除けば、かなり平板な印象となってしまう。

阿修羅王像は、多面多臂の異形の姿をよくまとめて私は好きな像なのだが、客観的に見ればおとなしい部類に入るだろう。

仁王像にあたる2躰は、これもおそらく興福寺国宝館安置の金剛力士像をモデルとしているだろうが、はるかにおとなしく、上品に仕上げている。

 

笛を吹く迦楼羅(かるら)王像は、鳥のくちばしをもち、羽根を着ける異形の像だが、立ち姿が大変魅力的である。右足で曲の調子をとり、わずかに足先を上げているが、体全体を揺らしながらメロディーを奏でているような、自然な動きが感じられる。

また、老相の婆藪仙像は、顔やのどのしわ、浮き出たあばら骨などリアルで、それでいながら内からにじみ出てくる気品のようなものがあり、すばらしい。

 

ここに述べきれなかった像についても、それぞれの個性があり、魅力がある。ぜひ、じっくりと時間をかけて拝観いただきたい。

各像の保存状態は全体的に良好で、当初の彩色もよく残る。

 

 

制作年代と作者について

三十三間堂の二十八部衆像は、以上のように非常にすぐれた群像であるが、誰がいつつくったのかについて、分かっていない。銘文もなく、記録類も少ない。

 

三十三間堂は平安後期の1164年に創建され、鎌倉中期の1249年に焼けて、その後再建された。『一代要記』という史料によれば、この火災時に中尊の体の一部、千躰千手観音のうちの百数十躰、二十八部衆は救出されたという。

これを信じるならば、二十八部衆がつくられたのは、この火災以前ということになる。もっとも、救い出されたといっても実際には損傷が甚だしく、結局新たにつくり直されたという可能性は残るが。

 

では、三十三間堂の創建時に、すでに二十八部衆像はつくられ、安置されていたのであろうか。それについては記録からはたどれないが、千躰千手観音立像の創建当初像に千手観音像と二十八部衆が描かれた摺り仏が納入されているものがあり(鎌倉期再興像にも納入されているものがある)、このことから考えても当時からこれらがセットの仏たちなのだという認識は広くあったと思われる。従って、創建時より二十八部衆像は千手観音像の眷属として共に造像されたということは十分に考えられる。

しかし、そうだとしても、現存の二十八部衆像が平安後期、創建期の像であるとは思われない。なぜなら、像には玉眼が入り、写実を重視した豊かな表現すなわち鎌倉時代彫刻の特色が顕著にあらわれているからである。

 

では、創建時と1249年の堂焼失の間に造立されたという可能性については、どうだろうか。

実は三十三間堂はその間に3度修理が行われている。最初は1185年の地震によるもの。次は1206年の修復。そして3回めが火事の直前の1246年から49年にかけてのものである。ことに3回めの修理は規模も大きく、新造のごとく念を入れたものであったと史料にあるので、この時に二十八部衆像が補われたということはあり得ないことではないだろう。

 

もし本像が三十三間堂再建直前の修理時につくられたとすると、その作者として最もふさわしいのは湛慶の一門ということになろう。中尊の千手観音坐像の銘文から、創建時の大仏師が康助であり、その末裔である湛慶が再建時の大仏師となったと読めるので、その流れで考えるならば、直前の修理時にも湛慶が中心となったということは十分に考えられるからである。

また、これらの像の中には、湛慶作の高知・雪溪寺の毘沙門天、両脇侍像と作風が共通するものがある。湛慶の現存作品は父の運慶などに比べると少ないが、自然さ、はつらつさ、上品さをともに備えたすぐれた像が多く、二十八部衆像の中のことに優れた出来ばえを示す像には、そうした作風が見て取れる。

 

 

その他(風神・雷神像について)

風神・雷神は、二十八部衆に含まれることもあるが、三十三間堂像の場合、二十八部衆のほかとして扱われ、合わせて30躰の群像となっている。

 

両像は千躰千手観音像の前に並んだ二十八部衆像の両端に安置され、像高は各1メートル余り。膝を曲げ、腰をかがめて雲に乗り、怒りの表情をあらわにして下界を見下ろすありさまは迫力満点である。

持物である風の袋や雷の太鼓から手先、足先まで、細部までまったくゆるがせにせず、本当にすばらしい。

かつては雷神像が拝観入口に近い北東隅、風神像が南東隅にあったが、2018年以後逆の場所に安置されている。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』8、中央公論美術出版、2010年

『週刊朝日百科 国宝の美』29、朝日新聞出版、2010年3月

『国宝 三十三間堂』(改訂 第6版)、本坊 妙法院、2009年  

『妙法院・三十三間堂』(『新版 古寺巡礼 京都』18)、淡交社、2008年

『妙法院と三十三間堂』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、1999年

『八部衆・二十八部衆』(『日本の美術』379)、伊東史朗、至文堂、1997年12月

『週刊朝日百科 日本の国宝』069、朝日新聞社、1996年6月

『妙法院・三十三間堂』(『古寺巡礼 京都』14)、淡交社、1977年

『三十三間堂』、三十三間堂奉賛会、1961年

 

 

仏像探訪記/京都市