神宮寺の諸像

  伊奈冨神社から移された神・仏

持国天像
持国天像

住所

鈴鹿市稲生西2−8−16

 

 

訪問日 

2007年8月9日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

 鈴鹿市観光協会・すずかし観光ガイド

 

 

 

拝観までの道

鉄道の駅としては、四日市と津を結ぶ伊勢鉄道の鈴鹿サーキット稲生駅が近く、そこから南南東に歩いて10分弱。

バスの場合は、近鉄の白子駅と平田町駅を結ぶ鈴鹿コミュニティバス(1〜2時間に1本運行)で「稲生局前」下車、すぐ。 

 

鈴鹿市コミュニティバス

 

拝観は事前連絡が必要(ただし雨天時は不可となる)。

 

 

拝観料

300円

 

 

お寺や仏像のいわれ

平安時代に入って神仏混淆が進むと、神社に併設して神宮寺がつくられたり、寺院の中に鎮守という形で神社がつくられたりすることが多くなった。

鈴鹿の神宮寺は伊奈冨(いのう)神社の神宮寺であり、もとの位置からは若干移動しているというが、それでも伊奈冨神社から東へ10分足らずのところにある。

 

伊勢の寺の多くが信長の兵火にかかっている。この寺も焼け落ち、末寺と合併した際、現在の場所に移ったという。

近代初期の神仏分離の際に完全に伊奈冨神社と切り離されたが、その際伊奈冨神社内にあった菩薩堂の諸像がこの寺に移され、現在は収蔵庫に納められている。

 

 

拝観の環境

ご住職が丁寧にご案内くださり、収蔵庫の中まであげていただけるので、とてもよく拝観することができた。

 

 

仏像・神像の印象

収蔵庫の奥に設けられた壇の中央の仏像は薬師如来立像で、高さ80センチほどの比較的小さな像である。おなかに細かく襞(ひだ)を刻み、その下はY字型に衣の襞を表すしかたは、平安前期の以来のものだが、表情はやさしく、衣紋の表現も優美で、腿(もも)の肉付きなどは薄くなっているのは、平安後期の特徴を示す。ヒノキの寄木造である。

 

左右の2体は天部像で、右は剣を持つ持国天、左は宝塔を持つ多聞天と伝える(持物は後補と思われる)。本来は四天王であったのかもしれない。像高は160センチ前後、等身大の像である。クスノキの一木造で、持国天の袖口など平安前期彫刻の特色である翻波(ほんぱ)式衣文の名残りが見え、古様さを感じさせる。目は大きく見開いて、なかなか魅力的で顔つきである。邪鬼を2匹ずつ踏みつけているのは面白い。

姿勢がやや窮屈そうに見える。木材の制約のためだろうか。あるいは、平安時代も後期になってくると、四天王像も優美さやおとなしい姿が好まれ、誇張した表現がなされなくなるという流れのなかで造られたからと考えるべきか。

以上のようにこの3体の仏像のみどころは、中央からやや離れた地で、前代の特徴を残しつつ展開していった平安後期彫刻というところにあると思う。

 

三体の仏像の向かって右前に安置されているのが、淳和(じゅんな)天皇像と伝えられる男神坐像である。

淳和天皇は平安前期の天皇であるが、歴代天皇の中ではあまり名前を知られている方ではないだろう。この時代空海がこの地を訪れて伊奈冨神社において祈祷を行って悪疫を払い、淳和天皇が勅使を派遣し、神社の殿舎の整備も大いに進んだという。このような言い伝えから、神の像がこの天皇の姿と重ねられたのだと思われる。

像高70センチ余りの一木造で、衣冠束帯、ひげを表した俗体であるが、威厳をたたえ、強い存在感がある。ウロのある木を用いているが、神木として特別な用材であったのだろう。手先が後補であるのは残念である。

 

 

その他

収蔵庫内の拝観のあと、ご住職が本堂に案内してくださった。

本堂の壇上の諸像では、深沙大将立像が珍しい。砂漠で玄奘三蔵を救ったという神で、口に蛇をくわえ、どくろの首飾りを下げるなど、異形の神である。高さは1メートルほどで、ケヤキの一木造、素朴な造形で、鑿(ノミ)のあとを残す。平安時代あるいはその後の中世の作品である。

 

 

さらに知りたい時は…

『三重県史 別編 美術工芸』、三重県、2014年

『地方仏を歩く 2(北陸近江伊勢編) 』、丸山尚一、日本放送出版協会、2004年

『仏像東漸』(展覧会図録)、四日市市立博物館、2003年

「三重県の仏像」6(『三重大学教育学部研究紀要 人文・社会科学』46)、松山鐵夫ほか、1995年

『姿をあらわした神々』(展覧会図録)、四日市市立博物館、1994年

『三重の美術風土を探る』(展覧会図録)、三重県立美術館、1986年

 

 

仏像探訪記/三重県