清水寺(若穂保科)の諸像

20世紀前半に奈良から移されてきた仏さま

本堂
本堂

住所
長野市若穂保科1949


訪問日 
2024年6月30日


この仏像の姿は(外部リンク)
長野市文化財データベース・木造薬師如来坐像
長野市文化財データベース・木造阿弥陀如来立像
長野市文化財データベース・木造聖観音立像
長野市文化財データベース・木造千手観音及脇侍地蔵菩薩像
長野市文化財データベース・木造広目天立像・木造多聞天立像



拝観までの道
長野市には平安期の仏像を伝える清水寺(せいすいじ)という名前のお寺が2つあり、「松代の清水寺」、「若穂保科の清水寺」と地名によって呼び分ける。
ここで紹介するのは若穂保科の方の清水寺である。
長野駅から東南方向にあり、大豆島(まめじま)保科温泉線(46の系統番号がついている)というバス路線で向かう。このバスは長電(ながでん)バスとアルピコ交通バスが共同で運行しており、日中のバスの本数は平日で3本、土休日で2本といったところ。終点の保科温泉には日帰り温泉施設があるそうだ。
最寄りのバス停は「清水寺大門」で、長野駅からは約50分の乗車となる。

下車後、バス進行方向に少し歩くと、左前方に保科川(犀川支流)にかかる赤い橋が見えてくるので、それを渡り、さらに先へ進む。道は舗装されておらず、見通しも悪いが、まもなくお寺の門が見えてきてほっとする(もう一本東側の橋を渡ると遠回りになるが舗装された道で行くことができる)。
お寺は牡丹と紅葉の名所とのことだが、その季節でなくとも俗世を離れた感があり、とても気持ちがよい。

仏像拝観は事前連絡必要。


拝観料
1000円


お寺や仏像のいわれなど
清水寺の北側は若穂太郎山、あるいは単に太郎山と呼ぶ山がそびえる。標高は1000メートル弱で、展望が雄大ということで、人気のトレッキングコースらしい。
清水寺は寺伝によれば行基草創、坂上田村麻呂が伽藍を整備し、室町時代に足利義政が中興したという。かつては中世の大日堂や三重塔が軒を連ね、国宝指定(旧法によるもの)の胎蔵界大日如来像や四天王像が安置されていた。
ところが、1916年に保科村の大火で、全山焼失となった。当時はしばらく雨がなく乾燥著しい上に強い西風が吹いていたそうで、短時間のうちに村の多くの家が焼かれ、植林された杉の森をなめ尽くすように太郎山の斜面を駆けのぼって、清水寺のすべての堂塔を焼き尽くしたという。失われた仏像は、残された写真を見ると、非常に恰幅よい大日如来像、怒りの表情がすさまじい四天王像、いずれも日本の仏像として破格のものであるように感じる。これらが失われてしまったのは、残念な限りである。

現在の清水寺に安置されている仏像は、この大火後に新たにもたらされたものである。お寺の方の話によると、清水寺で文化財の調査を行っていた研究者の方の助力によって実現したもので、元の所在は桜井市の石位寺という。この寺は無住となり、現在は収蔵庫のみとなって白鳳時代の美しい石造三尊像のみ伝わっているのだが、この時、清水寺から乞われるままに他の仏像については手放す決断をしたということであろう。
清水寺本堂内には、「奉迎地蔵菩薩」「奉迎薬師如来」などののぼりを立て、村人総出で大八車に載せた仏像を運ぶ行列の写真がある。縁あって再び村を見守る仏さまが来てくださることになり、当時の人たちはさぞ喜んだのだろう。

このとき奈良から移された仏像は19体である。うち7体が平安時代の仏像であり、重要文化財指定。薬師如来に眷属として従う十二神将像12体と合わせて、19体となる。このうち薬師、阿弥陀、聖観音、地蔵の4体が本堂に、千手観音と二天が観音堂に安置されており、十二神将像は修復中とのこと。毎年1体ずつ修理が進んで、2025年には終わって戻ってくる予定とのことだった。


拝観の環境
本堂、観音堂とも堂内でよく拝観させていただけたが、観音堂は暗く、細部まで見るのはなかなか難しい。


本堂安置の仏像
本堂壇上の中央厨子内には観音の小像が安置されており、お寺の方によればこの像だけが火災から助けられた像であるという。その向かって右に地蔵菩薩と阿弥陀如来、向かって左に聖観音と薬師如来が安置されている。

このうち古様さを示すのは、薬師如来像である。像高は約85センチの坐像。一木造で、樹種はサクラという。肉髻は段をつくらず自然につながって盛り上がるタイプで、平安時代前期から中期の如来像によく見られる。顔は大きめだが、ほおは張らない。目は切れ長とし、鼻も大ぶりに、眉はしっかりあげる。くちびるは少し突き出す。口は正中線を少し外し、表情に動きを感じさせる。
上半身は高く、衣はしっかりと肉身をくるむ。右足を上にして組んでいる。

阿弥陀如来、聖観音、地蔵菩薩は立像で、像高は地蔵菩薩は約160センチ、阿弥陀如来と聖観音は約170センチ。いずれも寄木造で、樹種はヒノキという。12世紀、平安時代後期~末期の作である。
阿弥陀如来は定朝様が顕著で、お椀を伏せたような肉髻、螺髪の粒は小さく、美しく整えられている。ほおは自然な張りを見せる。衣は省略気味につくられる。目鼻は中央に寄る。細身で厚みも少ない。下半身を長くつくる。像内に鏃が納められていた。
地蔵菩薩は、本来は観音堂安置の千手観音像の脇侍であったという。顔立ち、衣、腕の動きなど非常に優美である。中尊寺金色堂内の地蔵菩薩を大きくしたような印象がある。
聖観音像は目を丸くつくり、口角を下げて、しもぶくれの顔立ちで、エキゾチックな印象がある。肩を若干後ろに下げて体に動きをつくっている。


観音堂の仏像
観音堂は本堂の裏手、太郎山の中腹にあり、本堂横から一直線に続く階段を延々と上って20分くらいかかる。お堂は比較的新しい耐火建築で、この建設のために階段をまわるようにしてつくられている舗装道路が設けられたとのこと。
こちらに安置されているのは、千手観音像、広目天像、多聞天像、十一面観音像である。このうち十一面観音像だけは奈良県の個人のもとより移されてきたものだそうだ。四角い台座に乗り、光背に梵字をつけているので、錫杖は持っていないが長谷式観音であったのだろう。目鼻は小さく、なで肩で、ぜんたいにずんぐりとした仏さまである。

他の3体は本堂の古仏と同じく、旧石位寺から移されてきた像で、千手観音像は平安時代の中期くらい、天部像は後・末期の像である。
千手観音像は像高約140センチの坐像。サクラの一木造だが、脚部はケヤキ材という。背ぐりがあり、鏡3面、櫛2枚が納入されていた。脇手や台座などは後補。
頭部は大きめで、顔を斜め下向きにし、合掌する2本の手との間合いがよい。眉の立ち上がりが美しく、鼻筋が通る。口は小さめで、鼻口が接近する。胸飾りや合掌種の臂釧は彫り出している。脚部を衣がしっかりとくるみ、ひだは浅めながら、翻波式衣文がみられる。ふくらはぎや膝頭を高くあらわす。

千手観音に向かって左側に広目天が、右に多聞天が安置されている。像高は約150センチとそろっているが、材質は異なり(広目天はヒノキ、多聞天はサクラという)作風も異なるので、本来一具ではなかった可能性がある。
広目天は髪を逆立て、目は丸く、口は結ぶ。鎧の下の衣の様子は華やかにつくられる。立ち姿はどことなくぎこちない。一方、多聞天は歯を見せ、怒り肩で、右足をやや遊ばせながらすっきりとした姿で立つ。この2像は作風が異なり、本来は一具ではなかったと思われる。


さらに知りたい時は…
『定本 信州の仏像』、しなのき書房、2008年
『長野県史 美術建築資料編 美術工芸』、長野県、1994年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』8、中央公論美術出版、1971年


仏像探訪記/長野県

観音堂
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