鎌倉国宝館の十二神将像

  辻薬師堂旧蔵

住所

鎌倉市雪ノ下2-1-1

 

 

訪問日

2011年7月2日、 2017年3月28日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

鎌倉国宝館・収蔵品紹介

 

 

 

館までの道

鎌倉国宝館はJRおよび江ノ電の鎌倉駅下車、徒歩10分〜15分。鶴岡八幡宮の境内にある。

原則月曜日休館(その他展示替え期間など休館の日がある)。

 

 

入館料

300円〜600円(展覧会ごとに異なる)

 

 

鎌倉国宝館について

鎌倉国宝館は、関東大震災によって貴重な文化財の多くが損失、損傷したことから、今後の大災害から文化財を守り、また、鎌倉を訪れる人が文化財にふれる機会を設けるという目的でつくられた鎌倉市の施設である。開館は1928年。

展示室はそれほど大きくないが、向って右側が仏像彫刻の展示場で、ケースを用いずに展示されている。照明はおさえ気味だが、ケースなしの展示なので、よく見ることができる。

左側のスペースでは、ケース内に絵画、工芸、比較的小さな彫刻が展示される。

年間数回の展覧会が企画され、大規模なものは全館を使うが、左側が企画展、右側が平常展示(「鎌倉の仏像」)という組み合わせが多い。全館平常展という場合もある。

 

 

鎌倉国宝館の薬師三尊像と十二神将像について

通常、向って右側の展示スペースの中央に展示されている薬師三尊像、十二神将像は、もと辻薬師堂(辻の薬師堂)に安置されていた仏像群である。

 

辻薬師堂は、鎌倉市大町というところにある小さなお堂である。鎌倉市名越にあった長善寺の流れを汲むお堂だそうだが、本尊の薬師如来像はさらに古くは東光寺というお寺の旧仏であったことが、その像内銘札によってわかっている。

これらは、現在こそ一具のようにして展示されているが、時代も異なり(薬師像が平安時代の仏像であるのに対して、十二神将像は鎌倉時代)、いつからセットとして安置されてきたのかは不明である。

 

薬師如来像がもとまつられていた東光寺とは、かつて鶴岡八幡宮の東の二階堂にあった。14世紀前半、後醍醐天皇と足利氏の抗争の中で護良親王が殺害された事件の舞台となったお寺である。

その東光寺が廃寺となると、上述のように薬師像は名越の長善寺に移された。近世には霊験あらたかとして名高く、江戸からも参詣人があったという。しかし、幕末の火災や横須賀線の開通による移転といった転変の中でこの寺もなくなってしまい、その後身として辻薬師堂が残された。

 

辻薬師堂の仏像は地元自治会によって守られていたが、かつての写真を見ると、かなり傷みが進み、仏像によっては転倒寸前というものもあった。

1993年になって、保存上の観点より、これら仏像はに鎌倉市に移管された。そののち10年以上をかけてその修理が行われ、今ではこうして鎌倉国宝館に展示されているわけである(全館を使った特別展の際など見られない時もある。また、展示替えもあるので、問い合わせてから行くのがよい)。

 

 

十二神将像の印象

十二神将像は、像高100センチ余りから150センチ余り。ヒノキの寄木造、玉眼。中世の作だが、一部は江戸時代に補われている。

頭部に動物の標識がついていず、かつては1号像、2号像等と呼ばれていたようだが、他の十二神将像との比較によって、子神、丑神…との呼び名が確定し、薬師三尊像が安置されている壇の周囲に十二支の順で時計まわりで、各辺3躰ずつ置かれている。

 

そのうちの8躰が鎌倉時代の作。残る4躰(卯、未、申、亥)がのちに補われた像である。

後補の像は室町時代の作あるいは江戸時代の作と意見が割れていたが、この度の修理に際し未神像の材を年輪年代法で調べたところ、17世紀半ばから後半に伐採されたことがわかり、江戸時代の作であることがはっきりした。

一方、当初像である午神像も同じ調査を行ったところ、13世紀後半の伐採であることが判明した。

概して鎌倉前期彫刻は大きな木材を用い単純な構造であるのが、次第に時代とともに細かな材を用いて複雑に木を組み合わせていくようになる。この十二神将像も木寄せはやや複雑であり、先の年輪年代法の結果と合わせ、13世紀後半の作と考えてよいと思われる。

補われた4像は、いずれも像高がやや高めである。また、像の印象が当初像に比べて全体に大味で、顔や髪は誇張が目立ち、鎧など服制は細かなところまで行き届いていない。一見してはどれが江戸期の像かは分からなくても、じっくり観察していくと、違いが見えてくる(ただし申神像は、顔面のみ当初像のものが使われている)。

 

当初像8躰のうち、まず目を引くのは、寅神像である。

体をくの字に曲げて、激しく前傾する。怒髪天を突き、太い眉をあげ、目は怒りで三角のようになり、口を開いて怒号する。

左手を右側に出して体をひねり、腰を左側に出すとともに右足を半歩右に出し、左膝をやや曲げる。邪悪なものを追いつめている姿なのであろうか。像の前で腰を屈め見上げると、その迫力は半端でない。

静かな姿勢の中に強い気迫を感じるのは巳神像である。

ごつごつと筋肉が盛り上がった面貌で、口は閉じているが、その怒気は顔全体から吹き出てくるようである。顔、腕を含む上半身はやや小さく、腰は太く力強い。こぶしを固めた左手にも力が入る。

腰に下がる鎖の意匠や脚絆のつくりなど、細部までゆるがせにしない。

 

最も面白い造形であるのは戌神像と思う。

やや腰高だが、バランスのとれた立ち姿の像である。

頭髪は巻き毛、顔つきは怒りよりもどことなく諧謔味があり、広い額、困ったようにも見える目つき、一文字に結んだ口許はなかなかいい味を出している。

この時代の十二神将像の中には、十二支の動物との関連を進めるあまり、本面そのものを動物の顔に似せているように見える像があるが、この戌神像もどことなく犬を連想させる顔つきである。

手の表情もなかなか面白く、右手は逆手とし、左手は鎧を縛っている紐の先端をつかんでいる。

 

 

大倉薬師堂十二神将像との関係

十二神将像の姿は、どの神将がどのようなポーズをとり、何をもつのか、どのような姿勢で、鎧をどう着ているかなどについて経論などに明確な典拠がないために、さまざまな姿でつくられている。典拠がないということは、願主や仏師による造形の工夫が入りやすいということであり、似た雰囲気やポーズの像が出てくれば、直接の影響関係があったのか、あるいは共通の図像を用いたのかなどいろいろと推論でき、面白い。

 

本像と姿やポーズが近く、また時代も近接する十二神将像としては、同じ鎌倉の覚園寺の十二神将像をあげることができる。例えば、子神像は矢の軸を調べ、丑神像は右手を挙げて左手を腰に、寅神像は体を曲げて敵を威嚇し…という姿は、ほとんど共通する。

さらに、鎌倉近辺には、影向寺(川崎市)をはじめ、いくつかの寺院に、中世から近世にかけての十二神将像でこの鎌倉国宝館像や覚園寺像に近いポーズのものが伝来していることがわかっている。

そうした一連の像の中でおそらく最も早くつくられたのが、この鎌倉国宝館の十二神将像である。

では、本像がモデルとなって、覚園寺や影向寺などの十二神将像がつくられたと考えてよいのかというと、事はそれほど単純ではない。

 

覚園寺の前身は北条義時が造営した大倉薬師堂である。

1218年、義時は十二神将のうちの戌神を夢に見て、お堂の建立を思い立つ。その年のうちに雲慶(運慶)に薬師像を刻ませて、これを安置する新堂を建てた。翌年の1月、3代将軍実朝が暗殺されるが、この時に義時はあやうく難を逃れる。そして同時刻に大倉薬師堂の戌神像が堂から消えていていたのは、義時を守ってのことであったという。これらは、 鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に書かれている。

このことから、次のように考えられる。

北条義時によって薬師如来像とその眷属である十二神将像がつくられ、覚園寺の前身である大倉薬師堂にまつられた。これらの像は、運慶作として広く知られ、さらに霊験あらたかな仏像としてその名はとどろいていたであろう。東国で薬師像、十二神将像を造立する場合、その規範となっていったのかもしれない。

大倉薬師堂はたびたび火災にあい、運慶作の薬師像、十二神将像はともに現存しないが、その後身である覚園寺には再興像(室町時代、仏師朝祐作)が伝わっている。その像が、当初の運慶作の像の姿を踏まえて造像された可能性は大きいと思われる。

一方、鎌倉国宝館の十二神将像は、当初だれがどこのお堂のために造立したものかは残念ながら明らかでないが、大倉薬師堂の十二神将像を規範としてつくられたのであろう。つまり、両十二神将像が似ているのは、ともに大倉薬師堂の十二神将像の姿を受け継いでいるからということになる。

このように考えるならば、鎌倉国宝館の十二神将像は、運慶作の今はなき大倉薬師堂十二神将像の姿を受け継いだ最も早い時期の像ということになるわけである。

 

 

薬師三尊像について

薬師如来像は像高170センチ余りの立像。ケヤキの一木造。

いかにも一本の木から彫り出した、堅固な印象の像である。頬はふくれ、衣文は省略気味にあらわされて、平安後期の地方的な造像と思われる。背中から深くくりを入れており、背板が失われているためにその様子は背後から見ることができる。

脇侍像は像高1メートル余りの立像で、江戸時代の作。

 

 

その他1(大町の薬師堂について)

大町の辻薬師堂は、鎌倉駅から南東に徒歩10〜15分。交差点「大町四ツ角」から南へ、横須賀線の踏切のすぐ手前、西側にある。

現在は、薬師三尊像および十二神将像のうちの2躰のレプリカがまつられていて、堂外から拝観できる。

 

 

その他2(旧太寧寺の十二神将像について)

横浜市内にある太寧寺にもとあった十二神将像が、今は奈良国立博物館におさめられている。

像高は各40センチ前後と小ぶりな像だが、なかなか動きがあり、かつバランスもよい群像である。鎌倉後期の作であり、覚園寺や鎌倉国宝館の十二神将像と共通する姿勢の像が多いので、この像もまた、今はなき大倉薬師堂の像を規範としてつくられたものと考えられる。

奈良国立博物館の本館(なら仏像館)で展示されていることがある。

 

 

さらに知りたい時は…

『鎌倉の仏像』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2014年

『薬師如来と十二神将』(展覧会図録)、鎌倉国宝館、2010年

 

 

仏像探訪記/神奈川県