世田谷観音の不動明王、八大童子像

  毎月28日に開扉

住所

世田谷区下馬4-9-4

 

 

訪問日

2007年7月28日、 2015年2月28日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

世田谷観音ホームページ

 

 

 

拝観までの道

目黒駅から祐天寺駅を通り三軒茶屋駅までの都バス(黒06系統)で「世田谷観音」という名前のバス停で降りる。バスは頻繁に出ており、交通の便はよい。バス停は世田谷観音(世田谷山観音寺)の裏手にあり、寺の裏口から入ることができる。

 

世田谷観音は、20世紀半ばに造られた新しい寺院だそうだ。寺域も狭く、小さいがユニークな姿のお堂が並び、いかにも苦心の末に造られたという感じの寺である。

 

目指す不動・八大童子像は六角形の不動堂にまつられていて、毎月28日14時より開扉される。

この日、14時前にお寺に着いたが、まず観音堂(本堂)での読経があり、続いて不動堂での開扉となった。大人数ではないが、熱心な信者の方が集まっていらして、その中に混ぜていただいた。

本堂の読経は長くなかったが、不動堂では護摩が焚かれ、30分以上に及ぶ。護摩を焚く炎は儀式が進むとともに高くなり、また小さくなったが、一時は不動像の光背の火炎と同じくらい大きく燃え上がった。

仏像の拝観は儀式の終了後となるが、しばらくすると再び厨子の扉は閉じられてしまうので、拝観を希望するのであれば少なくとも15時ごろには到着している必要がある。

 

 

拝観料

特に設定されていない。

 

 

仏像のいわれ

奈良県天理市にかつて内山永久寺という大寺院があった。12世紀前半に鳥羽天皇の勅願寺として建てられ、大和の寺院では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ地位であったとか、江戸時代には「西の日光」ともよばれたといった逸話が残るが、近代初頭の廃仏毀釈によって寺は廃絶した。破壊を免れた什宝も散り散りとなり、外国へ流出したものもある。

内山永久寺旧蔵の仏像のうち、仏師康円作のものが2組ある。ひとつは四天王の眷属(けんぞく)像4躯で、東京国立博物館、静嘉堂文庫美術館、MOA美術館に分蔵されている。高さ32センチくらいの小像で、四天王の眷属というのは経典にはみられるものの、彫刻作品としては唯一という珍しいものである。

 

もう一組がこの世田谷観音の不動・八大童子像である。群像9体が当初のまま(ただし持物は後補のようである)に伝えられているというのも、きわめて貴重である。一時実業家が所有するなど流転を経て、この寺が安住の地になった。

内山永久寺関係の史料によると、これらの仏像は1268年から翌年にかけて康円によって造られ、1275年に最終的に完成して、岩座に建てられたという。史料に、その岩座は「山水之躰、風流之容」とあるが、世田谷観音の像9体の台座は高低差がつけられた岩座であり、群像としての豊かな表現を生み出している。これが「山水之躰、風流之容」と言われればそうかと思う。

童子像の1躰からは、康円の名と1272年の年が書かれた納入文書が見つかっている。(内山永久寺関係の史料と納入文書では年が完全には一致していないが、全般的にみてこの像は内山永久寺旧蔵のものと考えられている。)

 

 

拝観の環境

上述のように、儀式の終了後にすぐ前まで進むことが許されるが、拝観できる時間は短い。

 

 

仏像の印象

中央に立つ不動明王像が像高約110センチ、その両脇に4躰ずつ童子を置くという構成である。

不動明王像は、片目をすがめ、口を強くへの字にして、誇張した表情を出す。

童子もそれぞれ個性的な顔つきをしている。像高は約30センチから60センチで、5躰は立像だか、1躰は岩に腰掛け、1躰はやはり腰掛けているが半跏の形、最後の1体は龍に跨がるというように、それぞれポーズをとっている。それに加えて岩座の高さを変えることで、不動像を中心にきれいに二等辺三角形の形におさまっている。写真でその様子を見たとき、絵画的な世界を彫刻に無理にうつしかえたように感じた。

 

しかし、今回間近で拝観でき、力のある群像彫刻であると印象を新たにした。光る玉眼が像に命を吹き込んでおり、思い思いの姿も不自然でなく、統一性がある。一部残る彩色・切金も、この仏像の丁寧な仕上がりを思わせる。斜めから見るとしっかりと慶派の張りのある肉体表現がなされているのが見て取れ、それぞれのポーズは見事に決まっていて、あたかも素晴らしい舞台をつとめあげた役者たちのカーテンコールのようである。

 

 

康円について

作者の康円は、運慶の次の次の世代の仏師である。運慶の次男・康運の子、あるいは四男・康勝の子ともいわれる。

運慶の長子・湛慶が東大寺講堂の千手観音像(現存せず)の造像半ばで世を去ったあと、康円がそのあとを継いで完成させていることから、康円が湛慶の後継者的な地位にあったことは間違いない。湛慶亡き後、再建蓮華王院(三十三間堂)の仏像群を完成へと導いたのも康円と考えられている。

 

 

その他

不動堂と向かい合わせのように立つ阿弥陀堂内には、もと五百羅漢寺にあった羅漢像8躰が安置され、堂内で拝観できる。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』11、中央公論美術出版、2015年

『内山永久寺の歴史と美術 調査研究報告書内山永久寺置文 研究篇』、東京国立博物館編、東京美術、1994年

「康円研究序説」(『日本彫刻史論集』)、西川新次、中央公論美術出版、1991年

 

 

仏像探訪記/東京都