興福寺中金堂の脇侍菩薩と四天王

2018年に再建された堂内に立つ鎌倉仏

住所

奈良市登大路町48

 

 

訪問日 

2018年12月16日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

興福寺 寺宝、文化財

 

 

 

拝観までの道

近鉄奈良駅から徒歩約5分

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

中金堂は2010年に再建がはじまり、2018年10月落慶。

 

興福寺の前身は、藤原氏の祖、中臣鎌足によって創始された山階(やましな)寺である。現在の京都・山科の地にあったというが、その後飛鳥地方に移転し厩坂(うまやさか)寺といい、710年に平城京に都が移されると再度移転し、興福寺となった。

はじめ金堂は1棟であったが、聖武天皇によって東金堂が、光明皇后によって西金堂がつくられると、当初の金堂は中金堂と呼ばれるようになった。

 

創建時の中金堂は300年余りのちの11世紀の半ばに焼失。平安時代から鎌倉時代にかけては、1180年の平家による焼き討ちを含め、再建しては100年ともたずに焼け落ちるという悲運が繰り返された。鎌倉時代中期に再建されたお堂は江戸時代まで続いたが、それも江戸中期の1717年に焼失してしまう。この頃、もはや興福寺に大規模なお堂をつくるだけの力はなく、1世紀あまり中金堂のない時期が続いた。

1819年に奈良の人々の寄進によって仮堂がつくられてたが、規模も小さく、耐久性にも限界があった。老朽化によって、2000年に解体。そのあとに再建されたのが今の中金堂で、創建当初の中金堂の姿を目指したたいへん雄大な建物である。

 

本尊は釈迦如来像。像高3メートル近い堂々たる丈六坐像。1819年の仮堂竣工を前にしてつくられた再興像である。昔日の実力は失われていたとはいえ、これだけの仏像を供養したことに奈良を代表する寺院としての気概を感じる。真新しい金箔でおおわれているが、これは中金堂再建にあわせて修理されたもの。

 

 

拝観の環境

堂内でよく拝観できる。

お堂は天井が高く、大きな須弥壇は白く輝いて美しい。空間が雄大かつシンプルであり、大柄な安置諸仏が小さく感じられるほどである。

四天王のうちの後ろの2像、広目天、多聞天像は拝観位置からはやや遠くて、若干見えづらい。

 

 

仏像の印象1(脇侍菩薩像)

中金堂の脇侍菩薩像は、それぞれ像高約3メートル半を越える立像。向かって右側が薬王菩薩、左側が薬上菩薩である。良薬を人々に与え、心身を癒した兄弟の菩薩といい、釈迦如来の脇侍とされる。本来は西金堂の釈迦如来像の脇侍としてつくられた。

鎌倉復興期、西金堂の釈迦如来像を手がけたのは運慶である。西金堂は1182年に上棟し、翌々年に仏像が引き渡されたが、この時には仕上げが完成しておらず、1194年くらいまでかかって最終的に完成をみたらしい。その後、1327年の火災では無事だったようだが、1717年の火災では頭部、左手、飛天のみ焼け残った。救い出された頭部は、興福寺国宝館で見ることができる。

 

一方、薬王、薬上菩薩は、像内納入品に書かれた日付から1202年の完成と考えられ、運慶作の中尊像から遅れての造像であったことがわかる。興福寺僧千栄の勧進によって造立されたことなどが知られるが、残念ながら作者名は書かれていない。

 

ヒノキの寄木造。ほぼ左右相称につくられる。

まげを高く結い、顔つきはやや厳しいように思う。目を釣り上がり気味にし、鼻口の間を短くして、口は小さめとする。薬王菩薩像の方が四角張った顔つきのように見える。薬上菩薩像の顔つきはまだらになった箔のために読み取りにくい感じ。

天冠台の飾りや胸飾り、腕に沿ってゆらゆらと波打つ天衣などなかなかおしゃれである。胴をしぼり、腰をひねる。両像は腰をひねりが逆になっており、そのために条帛をまとう様子に違いをつくっているのも芸が細かい。

ももの部分にはひだを刻まず、下肢には比較的強く衣の線を刻む。

全体的に優美さと力強さ、安定感と動き、ほっそりした感じと堂々とした感じが同居している面白さがある。

鎌倉初期における菩薩像の巨像として、注目されるべき像である。

 

 

仏像の印象2(四天王像)

中金堂の4隅を固める四天王像。像高は2メートル前後、カツラの寄木造。彫眼。邪鬼でなく、岩座上に立つ。

この四天王像は長く南円堂に安置されており、鎌倉復興期に南円堂本尊の不空羂索観音像および法相六祖像と一具と信じられてきた。しかし、1990年に研究の進展があり、興福寺の安置仏を描いた絵画との比較から、この四天王像は本来は南円堂安置像ではないと明らかになった。では、もとはどこにあったのかというと、東金堂説と北円堂説が上がっているが(北円堂説が優勢)、今回、そのどちらでもなく、落慶した中金堂へ移動することになった。

 

像名も、宝塔をかかげる多聞天像以外の3像は入れ替わっているとされていたが、今回研究成果をふまえ、変更が行われた。すなわち持国天と呼ばれていた像は増長天に、増長天と呼ばれていた像は広目天に、広目天と呼ばれていた像は持国天ということになった。

 

もしこの四天王像が本来北円堂の像であったとするならば、本尊の弥勒如来像をはじめとして、運慶が指揮をとり、その子らや弟子たちとともに作り上げた仏像群であったことになる。四天王像の直接の担当は、持国天が運慶長男の湛慶、増長天以下はその弟の康運、康弁、康勝となる。

 

持国天像は最も安定感があり、品のよい作品を生み出した湛慶らしいように思う。大きな鼻、その上の眉間のしわも印象深い。

増長天は剣を構える。振りかぶるのでなく、右のひじを上げつつぐっと斜め下方に構え、切っ先の方に左手を添える。口は少し開き歯を見せている様子がいかにも不敵で、自然なひねりを加えた体勢にも迫力が感じられる。

 

広目天はもっとも恐ろしげな顔つきで、誇張に走ってはいないが、顔・体・腰を異なる向きにひねりを加えて立つ姿が印象的である。作者(かもしれない)の康弁は興福寺龍燈鬼像(現在は国宝館安置)の作者として知られ、これは力と諧謔味を合わせたいい味の像であるが、この広目天像でも力がみなぎり、同時にバランスがよくとれているように思う。相手を威嚇する恐ろしさは東寺講堂の持国天像を思わせ、ごつごつと凄まじい顔つきは同じく東寺講堂の増長天を思い起こさせる。

 

宝塔を高く掲げ、そちらに顔を向けている多聞天像は、眉をうねらせ、口を半分あけて、不思議な表情である。どこか哀しみがにじみ出ている気がする。康勝は京都・六波羅蜜寺の空也像の作者であるが、両者には相通じるものがあるように感じるのだがいかがだろう。

 

どの像も動きをはらみながら、誇張に流れない。怒りの表情も行き過ぎない。風に翻る大きな裾や袖もなく、軽快であり、スマートである。

顔つきは野人を思わせる。主役を喰うような格好いい顔つきでない。それがまたとてもよい。

 

 

その他の安置仏

このほかに本尊に向かって左斜め前に大黒天像(鎌倉時代)、右斜め前に吉祥天像(南北朝時代)が安置されている。吉祥天像は厨子内に安置され、1月1日~7日に開扉されるそうだ。

 

 

さらに知りたい時は…

『蘇る天平の夢 興福寺中金堂再建まで。25年の歩み』、多川俊映、集英社、2018年

『興福寺のすべて(改訂新版)』、多川俊映・金子啓明、小学館、2018年

『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年

「特集 オールアバウト運慶」(『芸術新潮』2017年10月号)

『運慶』、山本勉ほか、新潮社、2012年

『興福寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章・片岡直樹編、里文出版、2011年

『運慶』、根立研介、ミネルヴァ書房、2009年

『興福寺国宝展』(展覧会図録)、東京藝術大学大学美術館ほか、2004年

『鎌倉時代の彫刻』(『日本の美術』459)、三宅久雄、至文堂、2004年8月

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、2003年

『奈良六大寺大観8 興福寺2』(補訂版)、岩波書店、2000年

『週刊朝日百科 日本の国宝057 興福寺3』、朝日新聞社、1998年3月

「興福寺南円堂四天王像と中金堂四天王像について」(『国華』1137、1138)、藤岡穣、1990 年

 

 

仏像探訪記/奈良市