東大寺戒壇堂の四天王像

  奈良時代四天王像の代表作

住所

奈良市雑司町406-1

 

 

訪問日 

2009年12月6日、 2024年2月22日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

東大寺戒壇堂

 

 

 

拝観までの道

東大寺大仏殿の西側にある。近鉄奈良駅から徒歩15〜20分。

 

華厳宗大本山東大寺

 

 

拝観料

600円(2024年4月からは800円)

 

 

お堂や仏像のいわれなど

戒壇とは、授戒すなわち戒を授ける場である。これによって正式に僧になることができたが、戒をさずけ、またその場に立ち会うべき高僧が不足であったことから、求められて鑑真の来日となったというのはあまりにも有名な話である。

鑑真は東大寺の大仏殿の前に戒壇を築き、さらに常設の戒壇院を設けた。しかし再三の火災によって被災し、現在の東大寺戒壇堂は江戸時代の再建である。

 

鑑真創建の戒壇院には金銅の四天王像が安置されたと記録にあるが、これがどの時代に失われたのかは不明である。

現在の四天王像は塑像(そぞう、土でつくられた像)で、まぎれもない奈良時代の作であるものの、近世の再建時に移されてきたものと考えられている。

本来どのお堂の像であったのかは不明とされてきたが、近年、東大寺法華堂(三月堂)本尊の八角二重壇の下の壇に、法華堂の伝日光、月光菩薩像(本来梵天、帝釈天像であったと考えられる)、秘仏となっている執金剛神像とともに安置されていたのではないかという説が有力になりつつある。

 

 

拝観の環境

お堂の中には大きくて高い壇が築かれている。壇の中央には多宝塔が置かれ、四隅に四天王像が安置される。

四天王像はかつては中央に向けて安置されていたが、現在は4像とも正面(南)向きとなっている。壇の外側には通路が設けられ、そこからやや見上げる角度での拝観となる。

南側の持国天像、増長天像は正面から近い距離で拝観できるが、広目天像、多聞天像は正面からは距離があり、斜めからや背面はよくわかる。

 

各像は斜め上からのライトに照らされていて、よく拝観できる。とはいえお堂の中はやや暗いため、光がさしこむ好天の日がよい。

 

仏像の印象

像高は160センチから170センチ。鎧を着し、邪鬼を踏まえる。

ほとんど彩色は落ちて白土をあらわすが、若干色が残っているところもある。手首や足先が後補となっているものもあるが、塑像という壊れやすい材質にもかかわらず、奇跡的とも言いたいほどの保存状態のよさである。

上述のように壇の周囲、一段低い通路から拝観すると像の下肢が目の前に来る。表面の土は目が極めて細かく、実に念入りに仕上げているのには目をみはる。

 

4躰の像はそれぞれポーズ、表情、鎧の皮の質感やその意匠など変化をつけていて、入念の作である。

持国天は兜をつけ、目を見開き、口をへの字に曲げる。増長天は目を見開き、口を大きく開いて、4躰中では最も強く怒りをあらわにしている。しかしそうはいっても、その怒りは奔放に解き放たれているというよりは抑えられ、うちに溜められているが如くである。

筆と巻物を持つ広目天は、閉口し、目は細めで遠望しているようである。多聞天は同じく目を細め、眉間にしわを寄せ、口を閉じる。右手で宝塔を高く掲げている。

瞳は石を用いていて、これがさらに像に生命力を与えている。古代の彫刻でたまさかに見られる技法。珍しい。

4像に共通するのは、誇張に走らず安定感をキープしつつ、内なるパワーを感じさせるところである。

 

像はそれぞれ邪鬼を踏まえる。四天王の邪鬼の中にはユーモラスなものもあるが、この戒壇堂の邪鬼は真に迫る。持国天の邪鬼は顔を踏まれ、口を開けてうめいているようだ。広目天のものは目の下に筋をつくっていかにも苦しげである。

 

 

広目天が持つ筆と巻物の意味

古式の四天王像、すなわち法隆寺金堂や当麻寺金堂の四天王のうちの広目天像は筆と巻物を持っている。この戒壇堂の広目天像もそうである。ところが平安時代に入ると、広目天を含めて4像すべてが武器をとるようになる(鎌倉時代になると、復古的に巻物を持つ広目天が再び現れる)。

四天王は怒りの表情をあらわにし、仏敵と戦う守護神であるので、鎧を着て武器を取る。しかし、なぜ文人のような筆と巻物を持つ姿で登場するものがあるのかは不思議なことである。

 

ところが、四天王にはまた別の一面があるらしい。『仏説四天王経』などによれば、四天王は観察し、帝釈天に報告をする役割を担っているという。

ということは、広目天の持つ筆と巻物は、その観察と報告を行うための記録の用具であると解釈することができる。

戒壇堂の広目天像と多聞天像は怒りに眼を見開くというのでなく、眼を細めにして、遥か遠くを見るがごとくである。そのまなざしは、日本の仏像彫刻の中でも特段に印象的であるが、この姿は、この世の隅々まで観察の目を行き届かせている様子を表現しているのかもしれない。

 

 

邪鬼について

四天王が戦う神であるとともに観察する神であるというなら、いったい彼らは何を観察しているのだろうか。それは、われわれ衆生の行いであるという。特に月に6回めぐってくる六斎日には、四天王は人々がどれほど仏教に帰依しているか、戒を保ち、清らかであるかを調べ、帝釈天に報告をする。

つまり飛鳥、奈良の人々にとって四天王とは、自分たちを見張り、問題があれば報告し、場合により懲罰を加える神であったらしい。

 

では四天王が踏んでいる邪鬼とは何なのだろうか。

実は邪鬼について、教義的な典拠は明確ではない。

ところで四天王は主として六斎日に観察を行うということだが、『大智度論』という経論の中に「六斎日に悪鬼が現れる」と書かれている部分がある。この悪鬼というのが四天王に踏みつけられている邪鬼のことである可能性があるという。

 

以上を総合すると次のように考えることができるのではないか。すなわち、四天王が我々を観察する六斎日には、悪鬼が現れて我々をことさら悪事へと導く。四天王は我々を見張り、場合により懲罰を加える恐るべき神々といった側面もあるが、しかし冷たい観察者として距離をとっているのではなく、我々を悪の道に向わせようとする鬼を退治してくれる頼もしい味方でもある。

今日でこそお堂の隅にあって脇役的存在とされがちな四天王だが、古代の人々にとっては極めて身近で、緊張関係を保ちながら、同時に頼もしい存在としてあがめていたのではないだろうか。

 

 

その他

中央の多宝塔には、像高25センチほどの金銅製の多宝如来、釈迦如来像が安置されている。鑑真が来朝時に持って来た唐の仏像と伝えられる。ただし、安置されている像はレプリカで、本物は寺内の収蔵庫に保管されているとのこと。

 

 

さらに知りたい時は…

「古代寺院の仏像」(『古代寺院』、岩波書店)、藤岡穣、2019年

『日本美術全集』3、小学館、2013年

『仏像のかたちと心』、金子啓明、岩波書店、2012年

「東大寺の塑像をめぐる諸問題」(『奈良時代の東大寺』、東大寺総合文化センター、2011年)、稲本泰生

『奈良時代の塑造神将像』、奈良国立博物館 編、中央公論美術出版、2010年

『週刊朝日百科 国宝の美』12、朝日新聞出版、2009年11月

「東大寺法華堂八角二重壇小考」(『仏教芸術』306)、奥健夫、2009年9月

「悔過と仏像」(『鹿園雑集』8)、長岡龍作、2006年

「仏像の意味と上代の世界観」(『講座日本美術史3』、岩波書店、2005年)、長岡龍作

『奈良六大寺大観10 東大寺2(補訂版)』、岩波書店、2001年

『魅惑の仏像6 四天王』、毎日新聞社、1986年

 

 

仏像探訪記/奈良市